昭和五十六年九月十七日 朝の御理解
宮崎正
御神訓一、体の丈夫を願え。
昨日、ある方がお参りして来て、合楽では、「信行、心行、家業の行」と、これに徹する以外にないと聞いておりましたが、ある教会にお参りをさせて頂いたら、「賃金をとってする仕事は御用じゃない」、ね、いわゆる無報酬。例えば、教会で一生懸命御用頂くといった、それがほんとの御用だ。だから、給料貰うたり、賃金を取ってするのは御用にはならんと言われたが、どういうふうに頂いたらよいでしょうかと、お伺いがあったんですけれども。よく考えて見ると、そうかも知れませんよね。
だから、結局、無条件ということになりますね。無条件であって、初めて、例えば、お百姓する人が一生懸命よい野菜を作りだす。たくさん作物を頂くために一生懸命働く。それをやっぱり自分の我情我欲で働くということは確かに御用にならんでしょうね。そこで、我情我欲を取って、世のため人のためになるようなお野菜や作物が出来ますようにという祈りをもって、今日も一日忙しく御用にお使い回し頂いたというこになる時、初めてそれが、家業の行というこになるのではないでしょうか。
これこれすりゃ、いくらになる。お商売をしても、そうです。そろばんだけを取って、これこれすれば、いくらに利益になる利益になるから働いておるというのでは、やっぱり御用に、いわゆる我情我欲が伴うては御用にはならないだろう。その内容がね、いよいよ神様の心に通うもの。
例えば、今日の御理解の「体の丈夫を願え」とおっしゃるから、「どうぞ健康でありますように、無病息災でおかげ頂きますように」と、こう祈っただけでは、まあ金光教の信心、特に合楽では、いけないように思いますね。どうぞ今日も健康で、今日も一日しっかり御用ができますことのために、今日も健康でありますようにと、そんな御用とは、今、申しますように無条件、お商売をさせて頂いて、今日は儲かった、今日は損した。もう損得は別にして、今日も一日御用にお使い回し頂いたという御用であってほんとの御用であるように、今日も一日、どうぞ世のため人のためになるような御用にお使い回し頂きますために健康のおかげを頂かせて下さいと、こう筋が通る訳です。
もう一つ合楽では、ここのところを、無病息災を願うならば、まず自分の心の無病息災を願わなければいけない。心が身体に、仕事に現れてくるんだ、と説くのですね、合楽理念は。ですから、まずは自分の心の状態、体の丈夫を願う前に、まず心の丈夫を願わなければいけない。心の健全を願わなければならない。そこで、心の健全とは、どういうことかと言うと、今日も不平不足や腹立ちのない一日でありますようにというような願いと同時に、自分の心が健全である時には不平不足は出ません。自分自身の心が平生である時には、有り難い時には、不足はありませんね、腹立ちはありません。
私は、今朝方、お夢を頂いたんですけれども、この人は若い時から、非常にまあ普通で言うならば、根性の曲がった人でした。警察のお世話にも何回もお世話になった人です。その人が段々年を取っていかれるに従って段々おとなしゅうなっていかれたんですけれども、その人がね、何か一生懸命、大工さんのカンナをかけておるんです。こう腰を曲げてカンナをかけておる。そしたら、どこから飛んできたか知らんけれども棒みたいな、こんな丸い石を誰かが投げた。そしたら、カンナをかけておられるおじいさんの頭の上をすれすれに、向こうのガラス戸を突き抜けてパーンと割れた。私が側を通っていたから、私が投げたかも知れんと思われるかと思うた時に、そのおじいさんが頭を上げて、「はあ、これがあんた達が言うおかげと言うとじゃろうの」と言うてから、言わしゃった。大変以外だった。私が信心することを知ってあるから、おかげ、おかげと言うから、どういうことだと思いますか。
私はね、信心とは日々の改まりが第一、と仰せられますように、それこそ、身に、心に、カンナをかけるような思いの時、自分で本気で改まらねばならん、本気で磨かなければならん、と言ったような心を使っておる時には、一切が有り難く受けられるもんです。腹が立ったり、不平不足を言う時には、自分が磨こうとか、改まろうとかいう思いのない時です。一生懸命、木は心という、その心にカンナをかけておられる時だったから、そういう危ないことを、目におうても、それが、おかげであろうというふうに、こう受け取っておられる。「誰が投げたか」というふうには言うておられん。そういうお夢であった。
そういうお夢を頂いて、神様にお礼申させて頂いたら、今のようなことを感じたんですが、頂くとが、「114」と頂いたんです。そして「東西、東西」ということを頂いた。東西、というのはお芝居なんかがある時に「東西、東西」と言うでしょう。ヒョウシキを打つのが、あれが、東西、東西と言う。西東と、東西と、願ったことが西になろうが、東になろうが、114である。4と言う字は誰でも嫌いなんだけれども、4(し)を(よん)と読ませて頂く、一つ一つをよいことに、よいことに、という頂く心。そういう心、願ったことが西と願っても東となり、東と願ったことが西になっても、それを有り難いと受けて、初めて「東西、東西、ただ今から幕が開きます」と、おかげの幕が開くのです。今日は、そういう御理解を頂いたんです。私どもが、おかげの幕を開けるためには、どうしてもね、その、東西、東西である。西であろうが、東であろうが、お礼の言える心の状態、それにはね、私がお夢の中に現れてくる、一生懸命、自分の身を削り心を削りと言われますが、そういう時には腹の立つようなことであっても、
腹が立たんのです。
まず願わなければ、体の丈夫を願う前に、まずだから、心の健全、心の丈夫を願わなきゃいかんです、ということ。そして日々の改まりが第一、信心とは本心の玉を磨くものじゃ、というところに、いつも焦点が置いておかれると、普通なら腹の立つよなことでも、腹が立たんし、不平不足を言わねばならない時でも、不平不足を言わんですむということ。だから東西、東西になってくる。おかげの幕が開くのです。
昨日、伊万里から参ってきた青年が、昨日、前の晩の福信会におかげ頂いて、泊まって、昨日の朝も一日、なかなかその求道心が強い。昨日は日田の高野さんところに、あちらは合楽理念に基づく商売をしておる、「合楽理念に基づく商売」と、それが小さい看板がかかっとる、というお話をお説教で聞いたもんですから、わざわざ高野さん所にね、合楽理念に基づく商売とは、どういう商売かというようなことを見、または聞こうと思うて行かれたことであろうと思うんです。
その方が、お届けをしておりましたが、私が勤めておりますところの道中に、一軒の金光様の教会がございます。○○という教会があります。やっぱり、八つ波のご紋章の旗があがっとるから、ちょっと寄らせて頂こうと思うて寄ったら、たまたま、お月次祭の日であった。5,6人のお参りがあった、お祭りが終わってお話を頂いた。行った途端に感じたのは「身がズーンとする思いがした」と言う。それが、よい意味ではなくてね、「はあ、来ちゃならんところに来た」という感じのズーンとするのであった。お祭りを拝み頂いておるうちに、「はあ、ここには神様がおらんなあ」と思うたという分けです。
最近のご信者さんですけれども、非常に感が強い。神様不在ということ。先だってのお道の新聞に、ある先生が「神不在」という教会が多くなった、ということが書いてあった。これでは人が助からん、神様不在、有り難いものも何も感じない、それは教会が小さいからとか、大きいからじゃないです。こりゃもう、ほんとに、そうです。
私は、何年か前に、今、植木に出ております、山田先生が、まだ教師の資格をとる前に、熊本の田舎の方です、もう瓜やらスイカやらがいっぱい出来る、田んぼの中に竹やぶがあるんです、その竹やぶの中に小さい一軒家が、ちょこんと建ってるんです。そこで布教しとりました。私、それから、久富繁雄さん、それから高橋さんですかね、あん時に3人で用件があって参りました。お広前は、ほんの6畳と4畳半ぐらい、4畳半の方に神様が奉ってありますけれども、何かもう身が引き締まるように、いわゆる神様を感じましたよ。「はあ、ここなら人が助かる」、広い狭いじゃない。もう結局ね、神様が生き生きとしておられるということです。
お互いのお広前でもそうです、ほんとに、おいさみなんかどんどん頂くところには、神様が生き生きしとられる証拠です。おイサミもなくなったり、何とはなしにね、神様の前を平気で通れるような神様は、もう不在になってござる時だと思うてね、私は心しなければいけにと思うです。だから、広いとか大きい、その人が感じた実感「はあ、ここには神様がおらんあ」と思いましたと、こう言う。これは大きな教会でも、そうです。出来たばかの鉄筋コンクリートの素晴らしいお二階にある教会に、ある、ここのご信者さんが参った。ところが御結界に誰も座っておられなかった。ところが、そこのお広前に行ったらゾーッとした、と言うんですよ。何か有り難い でなくてから、何かほんとに、そういうやっぱり教会があることを、前に新聞で書いた先生が言っておるように、神様不在の教会が多くなったということは、そういうことではないでしょうか。
昨日は堀内先生が初めての信者を連れてお礼参拝してきた。その信者がケガをして休んでおりましたら、そのケガ人が、今朝は不思議なことがあったと言うんです。ケガしとるところに、オレンジ色の光線がバーッとあたっとる、それが気持ちのよいこと、気持ちのよいこと、と言うて申しましたというお礼参拝でした。みなさん、どげん感ずる。オレンジ色と言や合楽の色と言われる。言うなら合楽のごヒレイ。そういう生き生きとした働きをお互い、一人一人の上にあっておるんだと思うですね、それを頂き止めるか止めないかというところが、今日言う、心一つなんだ。心次第なんだ。身体の健康を願うなら、まず心の健康を願え、心の健全を願わせてもらう。そういう生き生きとした願いが、合楽のごヒレイを受け止めることができると思うです。オレンジ色の光がですね、言うならば、お互いの上にも、燦燦としてこう降り注がれているのです。それを頂き止めるのは、言うならわが心である。「どうぞ今日も健康で一日御用ができますように、というか筋がたっとる。
それにもう一つなら合楽では、いわゆる心の健康を願う訳です。そして今申しますように、心の健康を願う、心の健全を願う、日々の改まりが第一、本心の玉を磨くことが信心だというふうにです、本気で自分の心にカンナをかけておる時には、腹の立つようなことでも腹が立たん。不平不足言わねばならない時でも、不平不足を言わんですむ。そういうおかげ、そういう心の状態で、健康を願わせてもらうから、ほんとに神様に喜んで頂く御用が出来るんだと、思います。どうぞ、体の丈夫を願えと、こう言われる。体の丈夫を願う、ためには、ほんとの御用が出来ることのために、今日も遊びに行くために、健康というと、釣り合わない。今日もほんとによい御用が出来ることのために健康をと、なら、その健康を願うためには、まず心だ、心の健康を、心の健全を願わなければならない。そこに日頃言われる、西になろうが、東になろうが、有り難いとお礼が言える時に、おかげの開幕ともなるわけです。
「114」である、いちいち4(し)で受けると、いやな感じ、けれども、一つ一つを4(よん)で受ける、言うならそういう受け心というものが、本気で本心の玉を磨く、改まろうという意欲の時でないと、それが出来ません、ね。そして、体の丈夫を願わせてもらう、同時に、よい、今日申しました。よい、ならよい御用とは、言うなら合楽では家業そのものを御用と頂いておる。だから、御用になるように、無条件の御用、言うなら出来る、さしてもらう。
自分のところのお広前、自分のおうちのお神様の言うならば神不在といったようなことはないか。いや自分の心の中に神不在はないか、心しときませんと、腹が立ったり不平不足が出る時には、確かに、心に神不在の時だ、と思わなならんですね。
どうぞ